あんなに青々と茂っていた葉もすっかり姿を消し、冬将軍の足音が聞こえてきそうな、
木枯らしの吹く寒い日のことだった。
私はお気に入りのダークグレーのコートを羽織り、買ったばかりの革靴を履いて、
バイト先へと向かっていた。
今日は午後からバイトだというのに、つい寝過ごしてほんの30分前に目が覚めた。
バイトの時間まであと20分。バイト先までかかる時間はだいたい15分ちょっと。
急げば間に合いそうだ。
私は時計で時間を確認すると、チカチカと信号が点滅している横断歩道を急いで駆け抜けた。
その時猛スピードで発進してくる車の存在を、私は見落としていた。
ププーーーーーーーーー!
え?
辺りに響く一際大きな車のクラクション。
ドンッという音と共に背中の辺りにくる衝撃。
あぁ、私、交通事故にあってるんだ。
私、死ぬのかな・・・。
スローモーションの映像を見ているみたいに、ゆっくりと私の身体が宙に浮き、
落ちていく。
綺麗な青空に真っ白な一筋の雲が流れていくのが見える。
まだ、やりかけのゲームが残ってるのに。
まだ、読みかけの漫画があるのに。
死の瀬戸際だというのに、そんなことを考える自分に笑ってしまう。
そして、その欲望を叶える為に必要な、一番の願い。
やりたいことがいっぱいある。
まだ・・・死にたくない・・・。
死にたくない
ドンッと地面に落ちる衝撃が身体全体に伝わると、私は意識を失った。
「先生・・・ケガ・・・・・・・・・・・・身体・・・・・・・・・でしょうか・・・。」
「何処・・・・・・・・・・・・ですから・・・・・・・・・・・・ですよ。」
ぼんやりとした意識の中、遠くで誰かが話す声がする。
そして病院や保健室で嗅いだことのある、独特の薬品の香りが鼻腔を掠める。
此処は病院・・・?
もしかして私、生きてるの?
まだ重いまぶたをなんとかこじ開けると、真っ白な天井が目に入った。
目線を下に動かすと首元まで白い布団がかかっていて、萌葱色のカーテンが
開いた窓から入りこむ風でふわりと揺れているのがわかる。
ベット左脇の小さな机の上に、綺麗にたたまれたコートとカバンが置かれ、
そのすぐ脇の床に、履いていた革靴が揃えて置かれていた。
何処も痛くない。
病院に運ばれたんだ。
あぁ、私、生きてるんだ…。
それを確認するように、ゆっくり手を握ったり開いたりしてみる。
足を曲げて、寝返りをうって、身体を起こしてみる。
あれ…?
自分の身体を見て、私はおかしなことに気づいた。
どこもケガしているようには見えないのだ。
それに、ケガをしているなら、先程身体を動かした時に多少なりとも痛みを伴うはずだった。
あれだけの事故にあって、ちっともケガをしていないなんてありえないはずなのに。
骨折はおろか擦り傷一つない。
どうして…?
他にもおかしな点が無いか探ろうと周囲を見渡していると、扉を開けて誰かが部屋に入ってきた。
言っては悪いが、少し太めの・・・ふっくらした体型のおばさんが、にっこり笑って私に声をかけてくる。
でも日本人じゃない。瞳や髪の色が、日本人のそれじゃない。
どうしよう、英語は得意じゃないのに。
そんなことを考えていると日本語で話しかけられたので、それが無駄な心配だったと知った。
「おや、目を醒ましたんだね。チーグル森の前で倒れてたから、魔物にでもやられたのかと思ったよ。
いちおう医者には見せたんだけど、ケガはないってさ。どこか、気分が悪いとか
そういうのは無いかい?」
魔物?
まるでRPGの世界のような単語に、頭が混乱しそうになる。
私はとりあえず冷静になろうと深呼吸すると、質問に応えていないことに気づいて
慌てて返事した。
「いえ、大丈夫です。元気です。ところで…あの…ここは何処ですか?」
「あぁ、言ってなかった。ここはエンゲーブだよ。」
エンゲーブ。
聞いたこともない地名だ。そもそも日本に、そんな地名の場所なんて無い。
事故にあった衝撃で、夢でも見てるんだろうか。
頬をつねってみたけれど、鈍い痛みが走っただけだった。
夢じゃ…無い…?
「あの…ジャパンってご存知ですよね?」
ここが日本なら、当然知っているだとう単語を口にしてみる。
日本なら、『当たり前』という返事が帰ってくるはずだ。
外国の方のようなので、一応英語で。とは言っても、英語なのは一部だけだが。
するとおばさんは、まるでそれを初めて聞いたという感じに、首を傾げた。
「何だい?ジャパンって。新しいパンの名前?聞いたこともないけど。」
私が事故にあったのは、まぎれもない日本。
なのにおばさんは、ジャパンなんて知らないどころか、新種のパンかとまで聞いてくる。
その上、チーグルの森、魔物、エンゲーブ。
当然のごとく、わけのわからない単語ばかり。
ここは何処……?
「そうだ、一番重要なことを聞いていなかった。私の名前はローズ。あんたの名前は?」
「私の名前は、です。」
「か。いい名前だ。の家は何処にあるんだい?こっち方面に用事があったから
来たんだろう?用事が済んでるんなら、近場まで送ってくよ。」
日本にいるなら当然わかるはずの単語が通じない。
そんな人に自分の住所を教えたところで、通じるわけがない。
送っていくと言われても、どうしようもない。
その質問に応える代わりに、私はこう返した。
「あの、エンゲーブって何ですか?」
「えぇ?エンゲーブがわからないって?頭でも強く打ったかい?」
ローズさんは目を見開き、まるで熱でもあるんじゃないかと言いたげに、私の額に手を当てる。
そうまで驚かれると、私が物を知らぬ子どものようで恥ずかしい。
けれど、本当にわからないのだから仕方がない。
「もしかして、記憶喪失…?」
ローズさんはそう呟くと、もう一度医者を連れてくると言って、部屋から出て行った。
部屋に1人残され、ローズさんの言葉を頭の中で反芻する。
ここが日本なら出てくるはずのない単語や、ここが日本なら通じて当然の単語が通じない。
まるで醒めない夢を見ているみたいだ。
「とくに外傷は無いですが、何らかの原因で記憶障害を起こしているみたいですね。」
お医者さんにはそう診断された。
お医者さんには通じるかもしれないと、日本のことや自分の住所のことや身の回りのことを
話してみたが、どれも初めて聞いた単語のようで、首をふるだけだった。
お医者さんが部屋を出た後、扉の向こうでローズさんに対して、『見知らぬ単語を話すところを見ると、
精神障害も起こしてる可能性があります。』と話すのが聞こえた。
私は何処も悪くない。何も間違ったことは言ってない。
けれど私の常識が、ここでは通じないのだ。
私はここに居る間、この夢から醒めるまでは、本当のことを誰にも話さないでおこうと決めた。
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次回、キャラ出てくるはずです。
各地に一つは診療所程度はあるという設定です。